読ませない権利について

ここで「ある個人史の終焉」の話に戻る。
「そのコンテンツが幾ら稼げるか」というのは、ひとつのものさしであると先に書いた。
それに付随させてカネを稼ぐための権利を与えるべきとも。
ここではもうひとつの物差しについて書く。

コンテンツの価値

そもそも、著作物は書いた人のモノなのだろうか?
僕は違うと考える。
著作物は読み手のモノだ。そこから得た感動までひっくるめて著作物の価値なのだから。
つまりもうひとつの物差しは、「そのコンテンツにどれだけの人間が心を動かされたか」だ。
怒りでも、悲しみでも、希望でもいい。動かされた人間の数が重要だ。
「ある個人史の終焉」はカネは稼げないかもしれないが、その意味では価値が高い文章だ。

それに付随した権利と義務

だがここで、価値に付随した権利として著作権を与えるのも違うと思う。
著作権の大部分はカネを稼ぐための権利。これでは作者は満されない気がする。
満たされる権利があるとしたら、それは賞賛を受けること。それに付随する義務は罵声を受けとめることだ。
心を動かす文章は、強い光と影を産み出してしまう。これは避けられないことだ。

その放棄

彼は文章を削除するという行為で、この権利を放棄し、義務から開放された。
「読ませない権利」などが問題なのではなく、賞賛を受ける権利を放棄するにはその方法しかなかっただけなのだ。
id:TERRAZIが転載したことで、「ある個人史の終焉」はまだまだ多数の人間の心を動かすだろう。
そこに作者はいないなら、それでいいのかもしれない。
事実僕も、転載されたものを読んだひとりなのだから。